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10月23日(土)。フィリピン戦に従軍した中村政夫さんを迎えての2回目の語り部の会。

前回は、新聞社やテレビの取材があり、参加者の方々も遠慮されてあまり声を上げることがなかったのですが、今回は、参加者の皆さんと中村さんと管理人の計28人の会で、途中で質問の声が上がったり、終盤は、戦争や平和についてざっくばらんに話すことができました。

中村さんは、アメリカ軍との戦闘の後、一人でジャングルの中を逃避行します。その際、食べられるもの(虫やカエル、トカゲなど)を生で食べたそうです。それでもお腹がすいて仕方なく、また、着ているものもボロボロで布切れのようになっていたので、民家に押し入ります。食べ物や着るものを奪い、そして、道案内にと同行させた現地の人も殺すことになります。

―――なぜ、殺さなければならなかったのか―――

会場から質問の声が上がりました。
「『ゲリラ』とは?」

私は質問が出てよかったと思いました。『ゲリラ』が何かを知らないで中村さんの話を聞いたのでは、中村さんの苦悩を十分に知ることができないと考えるから…。


「フィリピン戦」は、前期と後期に分かれます。日本が真珠湾を奇襲して始まった太平洋戦争。フィリピン戦「前期」は、日本がアメリカから占領していく戦争。「後期」は、アメリカが日本から奪還する戦争。この時に、アメリカ軍と手を組んでいたフィリピン人を、日本人は虐殺します。年寄り、女、子ども問わず、殺害する事件が起きています。

そのような行為によりフィリピン人の恨みを買っている日本兵です。その一人である中村さんにとって、現地の人(アメリカ軍に武器を渡されるなどしてゲリラ化。日本兵の居場所を知らせるなど。)を殺さずに解放することは、自分の存在を知らせることになるのです。つまり、捉えられるか殺されるかということです。

―――だから、殺さなければならなかったのです。

「15歳で殺さなければならなかったんです。・・・」
と、中村さんは、苦しそうに言葉を絞り出します。

「『日本兵は殺してしまえ!』と、戦後、慰霊のためにフィリピンに訪れた時にも、タガログ語で言われましたよ。」
と、現地の言葉を交えて、中村さんは話してくださいました。

私は、平和資料館に関わらせていただくまで、フィリピン戦で、日本兵がこのような残虐なことをしたことを全く知りませんでした。
日本にフィリピン人の方と結婚している方が多くいることから、「フィリピンと日本は友好関係にある」とだけ、思っていました。
恥ずかしい限りです。

フィリピンのマニラで起きた虐殺事件は、フィリピンの人にとって、日本の原爆と同じです。原爆の被害について日本人のほとんどが知っているのと同様、フィリピンで起きた日本人による住民虐殺のことをフィリピン人は知っているのです。

過去の日本人の過ちを知らずして、本当の平和を築けるはずがありません。

参加者の方からも声が上がりました。
「私たち日本人は、近現代史を学んでいない。もっときちんと学ばなければいけないと思います。」
「世界のことを考えずに、自分の国の利益ばかりを言っている今の日本が恥ずかしいですね。」

私も同感です。もっと世界を広く見て、そして、時間的に長く歴史を学び、その上で考えることが、平和を守ることになると思います。

以下、参加者の方の感想です。

●本人の現地での生の体験を生の声で聞かされ、大変な思いをされた状況がよく判った。
(この種のゲリラとの戦さの体験話は、初めて聞きましたので、改めて戦争の悲惨さを知ることができました。)

●語りつくせない程の記憶をもちながら60代までどんな気持ちで生きてこられたのか、想像できない辛さだと思いました。
 今、語る情熱があることと、そういう場があることが貴重だなーと思いました。
 視覚的な支援がいろいろあって、分かりやすかったです。
 語りを若い人に受け継いでいくには、どうしたらよいだろう・・・と、考えさせられます。

●正に戦場にいるような話を伺い、一つ一つの状況が心に残りました。司会者の解説もあり、理解が深まりました。
 すべての戦争に関するテレビの画像の録画及び新聞記事はスクラップにして保存していますが、本日の講演内容と共に必ず子孫に申し送っていく覚悟です。
 本日は素晴らしい講演、誠にありがとうございました。

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