引揚げ孤児

4月18日~20日。2泊3日で長崎県大村市に来ています。
19日は、「大村子供の家」を訪ねました。

戦争が終わった時に、海外にいた日本人は、軍人・軍属、民間人すべてで、およそ660万余人いたと言われています。
その多くが日本に帰ってきました。(それぞれの事情により、そのまま海外で暮らした方々も多くおられます。)

主に満洲(中国東北部)からの「帰還者」の中には、両親が居ない、保護する大人が居ない、子ども達も含まれていました。
いわゆる「孤児」と呼ばれた子ども達です。
その子ども達を保護した施設が「大村子供の家」でした。

「(前略)昭和二十一年七月頃から満鮮に居た日本人がぞくぞく葫蘆島(ころとう)から博多港へ引揚げてきた。その中に父は応召後戦死か生死不明で帰らず、母は終戦前後に死亡か生き別れ、兄弟姉妹とてちりぢりになった気の毒な孤児達が幾人もその中に交って引揚げてきた。その有様を見ると、頭髪はぼうぼう、服はぼろぼろで虱(しらみ)がわいている。顔は青ざめ皮膚はヒゼンガサ等でまるで餞鬼畜生という形で見る影もない。(略)」(『同胞援護会舎史』(和白青松園園長))

上記の引揚げ直後の様子からすると、子供の家で見せていただいたアルバムに納まる子供たちは、大人の温かい保護を受けたことを想像させます。

でも、何ページもあるアルバムをめくりながら、込み上げるものを抑えきれませんでした。

大人のエゴによって苦しむことになる子供たち…ガザやウクライナ。今も奪われ傷つけられる子供たちの命…

国が違う、歴史的背景が違う、…

一見、表面的には、異なる事象に見えるけれど、起きていることは変わらないと、私には思えてなりません。

私たちは、歴史を学び、今、未来に生かさなければならないと、切に思います。

日本が侵攻した中国東北部(旧満洲)には、国策として多くの日本人(一般住民)が送り込まれていました。

「満洲」と呼ばれたこの地は、中国から奪い取った土地でした。


もとから生活していた中国人が住んでいた場所が多くありました。つまり、日本の人々は、中国の人々の生活を奪ったのです。

そして、日本の人々は、中国の人々の生活を奪っただけではありません。

過酷労働を強いたり、虐殺をしたりして、命までも奪ったのです。

終戦直前のソ連(現ロシア)による侵攻により、満洲に住んでいた多くの日本人が、命を奪われました。

女性は辱しめを受けることがないようにと、髪を短く切り、男装していたと言われています。

日本に帰るまでに大変な苦労を強いられ、途中で家族を失った人々が数えきれないほどいます。

私たちは、このような苦しみを味わった方々がいることを知ると同時に、『どうしてそんな苦しみを負うことになったのか』を考えなければならないと思います。

日本人は、「加害者」だったのです。

国民総動員(総力戦)で戦った戦争。

最終的に、空襲や原爆で大変な「被害」を受けたけれど、もとを正せば、「自分が加害者(相手の命を傷つけた)」であったから、「被害」を被ることになったのです。

このように真摯に受け止めることが、真の平和をつくるエネルギーになると私は考えています。

4月になって、TICO PLACEに二度も訪ねてくれた中国人の留学生が言っていました。       

「私たちは、日本人を憎んでいるわけではありません。ちゃんと歴史と向き合ってほしいだけです。」

初めて来たときには、TICO PLACEの展示を喜んでくださいました。

そして、二度目は、

「来られた方に、飲んでもらってください。」

と、お父様が送ってきてくれたという烏龍茶を持ってきてくださったのでした。

真の平和は、『解ろうと努力する』ことから始まるのだと改めて思いました。
そのために、私たちは、学ばなければならないのだと思います。

当時の大村子供の家
若松にも保護施設が!?

私たち人間には、「人の痛みに寄り添う」力があり、行動力がある!

私は、「人間の力を信じる!」

孤児たちに寄り添う多くの大人たちの姿に、力をもらった一日でした。

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