教育とは②

(ブログ「教育とは①」のつづき)

戦闘機や軍艦を見て、「かっこいい!」と言う子どもが育ち、
「大きくなったら兵隊さんになる!」と胸を張って言う子どもが育ち、
親にも相談せずに、兵士に志願する子どもが育つ・・・

「現在」はどうでしょう?

「現在」も、
銃や訓練で飛んでいる戦闘機を見て「かっこいい!」と言う子どもは多いのではないでしょうか。
科学技術の粋を集めた人間の知恵の塊。「かっこいい」のは当たり前なのかもしれません。


大事なのは、考えるための「知識(根拠になるもの)」だと思うのです。

子ども達には、「銃」や「戦闘機」が、何をするために開発されたのか、使うとどんなことが起きるのかをより具体的に分かりやすく教えることです。

「あの飛行機は『戦闘機』といってね、敵の飛行機を撃ち落とすための飛行機なんだよ。中には、町に爆弾を落とすことができるものもあるんだよ。」

「もし、敵の飛行機を撃ち落としたとするよ。撃ち落とされた方の飛行機に乗っていた人は、どうなるかな?死ぬか、けがをするか・・・死んだら、もう二度と話したり笑ったりできないんだよ。家族はどんな気持ちになるかな?友達は?仮に、死ななかったとしても、すごく怖い思いをしたんだから、その後もずっと、怖い夢を見続けるかもしれないね・・・その時のことが忘れられなくて、ずっと苦しみながら生きていかなくちゃいけなくなるのかもしれないよ。・・・」

こんな感じでしょうか。

「知識」と同時に、(いえ、幼い子どもには「知識」よりも)大切なものは、「評価」だと考えます。

資料館に、戦争中の小学生が書いた日記があります。

左の日記には、朝、お宮の掃除に行ったこと。そして、朝会の時に先生から言われたことが書かれています。「今日、掃除をした人は、米英(アメリカ・イギリス)の子どもよりも勝っています。」と。

これが「評価」です。

子どもは、先生に「褒められた」⇒「心地よい」という快感情を得ます。
ただここでは、「掃除をしてきれいになった」⇒「心地よい」ではなくて、「掃除をして米英に勝てた」⇒「心地よい」なんですね・・・

だから、「あめりかに『負けるものか』と思った」という感情が育っていくのです。

右の日記は、「太平記」を読んだ感想を書いている宏規さんの日記を読んで、お父さんが「評価」しているものです。

志願兵になりたいと書いた日記

宏規さんは、敵陣へ突撃する武士の姿に対して、「勇ましい」「ぼくも忠義な人になろうと思った」と書いています。それに対してお父さんは、宏規さんのことを「立派になっている」「忠義できるとうれしく思う」と「評価」しています。さらに、

飛行機のなぐり込み、宏規もやるのだぞ。きっと。

で締めくくられています。「なぐり込み」に波線が付けられ、「きっと」という強い願望を表す言葉がわざわざ付け加えられて・・・

大好きな人や尊敬する人から「認められたい」と思うのは、自然です。認められたいからその人の価値観に合わせて成長してしまうのだと思います。

本来なら、小さい頃そうであっても、大人になるにつれて行動範囲が広がり、多くの他者と出会い、経験や知識も増え、自分を見つめ直して、自分の価値観を再構築していくものです。が、戦争末期には、兵士不足で志願年齢も低年齢化していました。つまり、作られた価値観のままの子ども達が戦いの最前線へと向かうことになったというわけです。

お父さんの話、先生の話、身の回りの大人の言葉や姿、与えられる本、見せられる活動写真・・・戦争を肯定する知識ばかりを与えられ、戦うことを良しとする環境で育った宏規少年は、日記に「ぼくも志願兵になる」と書いています。・・・(つづく)

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