若松のことを記録する③

11月8日。ぎっくり腰とワクチン接種の副作用から復活しました!

「健康第一!」を思い知らされた1週間でした。

いろいろなことを並行してやっている中で、「若松区のことを記録に残す」活動もその中の大きな一つです。只今の進行状況は・・・

多くの方々にお声掛けいただき、紹介して頂いた方には、電話をして話をしていただける時には会いに伺っています。
その中で分かったこと。
それは、若松区の空襲の体験を証言ができる方がほとんどいない(見つからない)ということ。

「もう遅いのか・・・この取り組みは断念すべきか。」
と、一時は考えました。でも、こうして証言者探しをする中で、空襲のこと以外で、記録に残すべきことがあることに気付きました。

「戦争(被害)で起きた事実だけでなく、戦争(被害)につながった事実も残さなければ。」

つまり、若松の炭鉱(関連)のことです。前にも書きましたが、新しい資料室のすぐ近くに、日本炭鉱の竪坑がありました。

戦争を支えていた石炭産業のことを展示に加えることは意義があると考えました。

これまでもいろいろなことで支えてくれている友人のご実家の近くが、昔は炭住だったというので、
「炭鉱のことをご存知の方はいませんか。炭住でのくらしについてご存知の方でも・・・」
とお願いました。

お母様からの紹介から始まり、巡り巡って「もとタバコ屋さん」のHさんを訪ねました。

炭鉱で交換手をしていた方でした!「もう、覚えとらんよ~」と言いつつ、まんざらでもない御様子に、「連絡先を教えていただけますか?」とお電話番号を教えていただきました❤(また日を改めて聞きに行く予定。楽しみです。)

Hさん家を出て、二島緑道に寄りました。
記念碑(慰霊碑)がありました。

以前、見たことがあったのをすっかり忘れていました!

二島の炭鉱の坑口があった場所まで歩いてみましたが、当時のものらしきものは見つからず。

八幡空襲を語り継ぐ会で出会ったTさんからは、抗夫として採炭していた方を知っていると連絡あり。こんど、いっしょに伺う予定です。

若松空襲のことと、そのころの若松区の町の様子と、そこで生きた人々と。
新しい資料室に展示できたら最高です!

この活動については、あと10年早ければ・・・と思うことはしばしばです。でも、
「やらないよりはいい!」
と、当時を知る方に会うたびに思うのでした。(実は、この日、もう一人すてきな出逢いがありました!次回に)

今日は、旧古川興業ビルの館長 若宮さんに若松のことを教えてもらいに行ってきます!

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