風船爆弾
1942(昭和17)年8月。大本営陸軍部は「世界戦争完遂ノ為ノ決戦兵器ノ考案」を陸軍省に要望。「ふ号兵器」(気球爆弾)として開発され、1944年11月から1945年3月まで放球された。
和紙をコンニャク糊で張り合わせたものを使って、気球部分を作った。製造に関わったのは、10代の女学生たち(14~24才の女子挺身隊員)であった。
茨城、千葉、福島の海岸から放たれた(風船爆弾)気球爆弾は、ジェット気流に乗って、アメリカ西海岸にたどり着いた。オレゴン州に住む牧師家族6人の命を奪った。
「女子挺身隊員」=1943(昭和18)年9月23日、「国内必勝勤労対策」決定。25歳未満の女子を挺身隊として動員し、軍需工場、兵器工場をはじめ、電車の運転など様々な職場で奉仕させられた。小倉陸軍造兵廠での「風船爆弾」製造に、14歳以上の多くの女学生が動員されている。