許せない 譲れないものがある by井手川 泰子
先週から、「棚」のことを考えています。
前の家主さんが使っていた「棚」をリフォームして、展示棚、本棚、カウンターを作るつもりです。(とことん「ある物」を使う精神!)
今日、窓の付け方を教えに、親方さんが来てくださる予定です。
棚の設置や、その他たくさん、悩んでいることがあるので、尋ねてみようと思っています。
さて。
2月7日(火)。とても元気をいただける出来事がありました。
井手川泰子さん(90)に会って、お話を聴くことができたのです。
井手川さんは、筑豊の元炭鉱労働者だった女性たちにお話を聴き、書き残す活動をしてこられた方です。
80人以上もの元女抗夫のお話を聴いたそうです。
私が知り合いに紹介されてこの本を読んだのは、去年の11月頃だったと思います。
その時は、「炭鉱労働」がどんなものであったのかを知りたくて読んだので、正直、井手川さんのことよりも、働いていた女性の様子や生き方ばかりに気を取られていました。
しかし今回井手川さんに直接お会いして、お話する機会をいただき、「井手川康子」という一人の人間に感銘を受けました。
自分も、少しでも井手川さんに近付きたいと思いました。
井手川さんは、小倉での空襲を経験されていました。
B29による日本初空襲となった1944年6月16日の深夜の空襲です。
小倉の砂津にあった自宅近くに爆弾が落とされ、一軒隣の友達の家に直撃で家族全員亡くなったそうです。(この時、小倉陸軍造兵廠でも学徒動員で働いていた10代の若者など80人もの命が奪われました。)
自分が生かされたこと。
ここが原点だと話されていました。
子どもだった井手川さんは、しばらくは空襲の話ができなかったそうです。
そんな井手川さんの話を聴いてくれたおばあちゃんとの出会い。
そこから人と話ができるようになったと、井手川さんはおっしゃっていました。
お話上手でお話好きな様子からは、そんな過去があったのかとはとても思えませんでした。
そんな井手川さん。
初めは、働きながら、元女坑夫の聞き書きをしていました。
が、ある年。一度に6人もの方が亡くなり、働きながら聞き書きを続けていたのでは間に合わない。と思い、仕事を辞めることにしたそうです。
「『我が家の民主化闘争』の始まりですよ。」
と、元気に話してくださいます。ちょっと楽しそうにすら見えます。
「『車がほしい』といったら、『そんな、アレがないとできない。コレがないとできない。とかいうものなら、辞めてしまえ!』と、夫に言われたの。
それで余計にやる気になってね。(笑)」
「歩き通したわ。」
90歳になる井手川さん。背筋もピンとしていて、足取りもしっかりとしておられます。
(戸畑駅まで電車に乗ってお一人で来られるというので、改札口に迎えに行ったのですが、違う方に声をかけてしまい、自分では見つけられなかったほどです。)
「だから、お元気なんですね。」
思わず口から出てしまいました。
でも、「我が家の民主化闘争」は、そんな笑えるものではなかったのではないでしょう。
思わず自分と重ねて考えてしまいました。
自分が「資料館を引き継ぎたい。」と夫に言った時のこと。
それから不動産探しをしていた1年近くの間のこと。
リフォームをし始めてからのこと。・・・
「私は私。私の人生を歩みたい。歩もう。」
理解してもらっていないと感じた時には、そう、自分に言い聞かせました。
もちろん、家族のこともひっくるめての「私」であることは分かっているし、そうありたいとも思っています。
でも、「私」があって「家族」がある。
それぞれの人格をまずは尊重し合う前提での家族でありたいと思うのです。
井手川さんに言われました。
「まずは自分の人権宣言をしないとね。」
なるほど。「私は私でいたい」と言うことが、私の人権宣言ということなんですね。
井手川さんの送迎係をしている友人の車に乗せてもらったので、車内でも井手川さんとお話することができました。(なんとラッキーな!!)
井手川さんのお人柄が分かるほっこりしたお話もたくさん聴かせていただきました。
そして、元気が出る言葉もいただきました。
「みんながおしゃべりできる『核』となる場所がいるんですよ。」
平和資料室をそんな場所にしたいです。
時々お手伝いに来てくださる方々と、ちょこっとですが、そんな場所になりつつあるなぁ~。とうれしくなりました。
貴重な貴重な、もったいない一日のことを心に留め、がんばります。
追伸
筑豊の元女坑夫たちもすごいです!
よかったら、「火を産んだ母たち」読んでみてください。