若松を生きる

11月9日。旧古河鉱業若松ビル館長の若宮さんに会いに行きました。

爽やかな秋晴れだったせいもあってか、「いい所だなぁ~。もっと宣伝したら、観光客が増えると思うんだけどなぁ~。」と、しみじみ。(「宣伝」が難しいことを痛いほど知っているのですが。)

若宮さんに、戦中の若松の記録、炭鉱の記録についてお話を伺い、「若松市史第二集」を大量にコピーさせていただきました。

分厚くて重く、本を傷めないようにコピーするのも一苦労。
それもそのはず。大変詳しく、具体的に記録されています。

実は、この前の『活動報告』の最後に書いた「すてきな出逢い」が、この墜落したB29を見た方との出逢いだったんです!
たまたま「戦争のころのことを知っている方」を訪ね歩いていた時に、「最後の一軒」から出てきた方でした。

不思議です。

「『書き残そう』と思われた方がいたのですね。」
と、今、自分がしようとしていることと重なった(レベルは違いますが…)からでしょう。
そんな言葉が口から・・・

重い本を傷まないように気を付けながら、「あとがき」へ。

『編集長 玉井政雄

なるほど!

菅報的記録としてより少しでも市民的性格を持たせようとした。』

再度、なるほど!!

玉井政雄さんは火野葦平の弟です。

火野葦平は、「兵隊作家」などと呼ばれ、「麦と兵隊」「土と兵隊」「花と兵隊」を書きました。戦後は、戦犯として公職追放を受けました。でもその作品は・・・

この兵隊三部作。
「どうして『戦犯』に?」
と、読んで思いました。

うまく表現できませんが、私には、『人間』を感じさせる作品に感じられました。
どういうわけか、心がほんわりする作品。・・・

そんな火野葦平の弟。玉井正雄さん。

「『庶民の目線』をお二人とも大事にされていたのかもしれないなぁ。」

なんだかエライ人が身近に感じられて、うれしくなりました。

若宮さんには、中学生(証言者の聞き取りをしてくれる)に、昔の若松区のお話をしていただくことをお願いして、「まずは、これ(コピーしたもの)を読んで勉強します。」と伝えてこの日は帰りました。

あ!若宮さんにすごいことを教えてもらい、感激したことを最後に少しだけ!!

「『蜑住』・・・いい場所ですね。蜑住は要所なんですよ。ーーーー
昔は海だったところです。元禄くらいかその前くらいに埋め立てられたんです。
大陸や朝鮮半島から人々が渡ってきて、東へと向かったんですね。
信州安曇野とも深い関りがあるんですよ。」

世界はつながっている!!
人類もつながっている!!

若宮さん、お忙しい中、大変親切にありがとうございました。

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