感謝

昨日(6月21日)は、フィリピン戦(※)を生き抜いた中村政夫さんのお話を聴きに行きました。

先日、もう一人の管理人の小野さんと資料館での催しについて打ち合わせをしていた時のこと。語り部として中村さんにお話していただけないかという話になり、すぐに電話をしました。が、不在だったため、私が夕方電話する約束をしたのですが…

小野さんが、中村さんとの出会いを教えてくださいました。

数年前の「平和のための戦争展」(年に一回開催。ちなみに今年は7月10日。)で、来場された方に、海軍志願兵募集のポスターの説明をしていた時の出来事です。小野さんが、志願する年齢について、ポスターの記述を指して「14歳」の子どももいたことを話していたら・・・

海軍に志願する人を集めるポスター

突然、
まさに、ぼくのことです。
と、隣りに立っている年長者の方が話しかけてきたらしいのです。

それが、中村さんだったというわけです。


「いやぁ~。すごい経験をしてあるよ。フィリピンまで行く船が撃沈されて、何時間も海に漂って何とか助かったらしいよ。」

「その後も死にそうな思いをしながらなんとか生き延びて、最後は、ゲリラに殴られて気絶してね。目が覚めたら捕まえられていて、自分の横にも何人か捕まえられている人がおるんだけど、一人ずつ首を切り落とされていっているんだって・・・。」

思わず耳を抑えてしましました。

「自分の2人前のところで、アメリカのジープがやって来て、助かったらしいよ。」


中村さんの経験を何も知らずに、依頼の電話をしてしまった自分を反省しました。

それから、中村さんの手記(北九州市自分史文学賞に応募)を読ませていただきました。

「あらすじ」に書いてありました。

五十年後の今、この経験談を書いた夜は、一睡も出来ず朝を迎えるので、二、三日ごとに書いている。
戦後の小説又は、映画を見ても頭が痛み眠れない。

顔がカッとが熱くなりました。「あ~。不在でよかった。とんだ失礼なことをするところだった…。」

それから中村さんの壮絶な戦争体験をじっくりと読ませていただき、それから手紙を書き、語り部の依頼をしました。
計算すると、90歳は越えていることが分かります。できるだけ負担にならないようにと、丸を付けて答えられるような返信用の文章をつけて、返信用封筒といっしょに、投函しました。

「いやな思いをされませんように…」

郵便受けを覗く私をよそに、昨日、突然お電話を頂きました。ーーー「お話を聴きに伺ってもよろしいですか?」と、お願いしたところ、「今日でもいいですよ。」と返ってきました。「では今から・・・」と、すべての予定を後回しにして、出かけたということです。


中村さんは、92歳でした。「運動しているから、元気ですよ。」と、大変穏やかに笑われるその姿から、あんな壮絶な経験をしたとは、とても思えませんでした。

お手紙ありがとうございます。とてもうれしかったです。・・・戦争のことを話すのは、もう慣れたのでだいじょうぶです。」

と言われ、それまでの心の重荷が取れて、涙がこみ上げてきました。

中村さんは、昨日のことのように詳しくお話をしてくださいました。でもその中で

「ぼくはね、恩給を受け取れなかったんですよ。」

と言われます。理由を尋ねると、

戦場での経験を話せなかったからですね。」とおっしゃるんです。申請に行った時に、どんな経験をしたのかと尋ねられ、体が震えて気がおかしくなったようになってしまって、話せなかったそうです・・・

戦争の時の頭の傷とそこからくる手のしびれ・・・。きっと、大変な苦労と悔しい思いをしながら、懸命に生きてこられたんでと思います。

戦後も大変な世の中を生き抜いてきてくださった方々のおかげで、今の豊かな日本がある。そして、戦争を経験された方々が、「戦争はいけない。平和が一番大切。」と声に挙げ、行動してくださったお陰で、今の平和がある。たくさんの命と様々な思い、願いが、今の平和を築いてきたことを忘れてはいけない。と思います。

中村さん宅からの帰路、感謝の気持ちでいっぱいの自分に幸せを感じました。



今朝のニュース「オリンピックの観客に酒類を提供する」に激怒? 酒類を提供しないで我慢しているお店関係の方々は、これを聞いてどう思われるのだろう?

私は、戦争中の自分の行動を反省し、平和のために一生懸命に生きた先輩の姿を見て、「カッコいい」と思うし、そんな方々が守ってきた日本という国を大切にしたいと思います。が、非を認めず、嘘はつく、都合の悪いことは隠す、筋の通らないことを押し付ける姿・・・かっこ悪すぎです。恥ずかしくなります。日本から出ていきたくなります。

命を懸けて国のために戦った方々に、申し訳ない気持ちでいっぱいになります。


最近の政治を見ていると情けなくなることが多くあります。が一方で、SNSなどによる国民の声が、政治を動かしていることを感じることもあります。戦後、国民主権になった日本です。強い者が幅をきかせ、弱い者いじめをする政治はダメだ‼️ちゃんと、自分の考えを伝えていこうと、中村さんのお話を聴き、気持ちを新たにすることができました。
「語り部の会」計画できたらお知らせします

フィリピン戦:日本が対米参戦を決意した要因の一つにはアメリカを無視してオランダ領やイギリス領の南方資源地帯を占領してもアメリカ軍がフィリピンを拠点にすれば容易に海上封鎖ができると考えたためであった。 日本軍は真珠湾攻撃直後の1941年12月22日にルソン島(フィリピン)に上陸し、翌年1月2日には首都マニラを占領した。その後、1944年からフィリピン奪回を目指す連合国軍と、防衛する日本軍との間で戦闘が行われた。~ウィキペディアより~

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感謝” に対して2件のコメントがあります。

  1. 山本 より:

    読ませていただきました。
    思いだし、語ることを体が拒絶するほど
    凄惨な体験をさせられた方々大勢いたでしょうね、、
    なのに、今はゲームやらで、シネシネ、とすぐボタン操作で殺せてしまい、現実の世界と同じ感覚になっている子供が多すぎて、、わが家もゲームはありますが、殺す内容のものは与えてないです、、それが将来よいか悪いか、までは、わかりません。

    でも、過去があるから今があることには変わらない、確実に私たちのご先祖様が戦争でひどい目にあっていて、でも命をつなぎ、だからこそ、今私たちが生きてるんよ、
    今こうしてる瞬間も、他国では、小さい子供が殺されたり、逃げまどい、勉強もできない、ご飯もたべれない、生きることがどれだけ大変か、な、状況におかれてるんだよ、
    自分たちがどれだけ恵まれてるか、て

    話したところで、なかなか理解は難しいだろうけど、、
    なので、夏休み、三年生双子連れていきます。
    火曜日か、木曜日に、行きます!
    よろしくおねがいします。
    貴重な機会をありがとうございます!

    1. TICo より:

      山本様

      メール、わざわざありがとうございます。とてもとてもうれしかったです!

      過去にあったことを、大人が意識して、子ども達に伝えていくことが、未来のために必要なことだと思います。未来を生きていくのは、大人である私達ではない。子ども達なのだから。

      目を覆いたくなるような、耳をふさぎたくなるような事実もあります。でも、戦争とはそういうことであり、その「本当の恐ろしさ」を知らなければ、問題解決の方法に戦争を選ぶような大人になってしまうと考えます。また、そんな中で必死で生きてきてくれた方々がいたから、今の平和があることにきっと気付き、感謝し、平和を大事に思いながら生きていく人間が育つと考えます。

      子どものうちに、楽しいことを全身で体験し、美しいと感じることにたくさん出会い、そして、悲しく、恐ろしいことも知ることが、幸せな世の中をつくる原動力になると思います!

      お待ちしています。どうぞ、気を付けておいでください。

      駐車場がないので、若戸大橋下の駐車場に停めるとよいと思います。1時間100円です(>_<)スミマセン 梅雨終盤。大雨に気を付けてくださいね。                      北九州平和資料館 管理人

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