戦中・戦後の生活

語り部の会の日にちだけですが、決まりました。(→今後のイベント
もう少し打ち合わせを重ねて、時間や内容を詰めていきたいと考えています。
夏休みの予定に入れていただけると嬉しいです!

さて、資料館には時々、ほんとにマレに(・_・;)、お話をしてくださる方が来館されます。

昨日、久しぶりに楽しい(?)お話を聴くことができました。

その方は、80歳代。当時小学生だったようです。(Oさん)

「小石の向こうが、当時は埋め立ててなくて、海やったけねぇ~。いつものように友達と泳ぎに行ったんよ。でもその日は、『今日は家に帰れぇ~。』っち、おいちゃんから言われたんよ。」

「帰りよったらグラマンが低空飛行で向こうから飛んできて。もうそりゃぁ怖かったよ。
操縦士の顔が見えよったけね。」※グラマン:アメリカ軍の戦闘機

「そんなんしよったら、ボカァ~ンっち爆発音がして・・・怖いで泣いたよ。
ふり返って見たら、ニッカ(?)の方から真っ黒い煙が上がっとったよ。」

当時の若松のことは私にはあまりよく分からないのですが、海から帰る時に、怖い思いをしたお話をしてくださいました。

「そん時は、いつもやったら遊んで帰って来ても何も言わんお母さんたちが、『あ~。よう帰ってきたねぇ。』って、言ってくれたよ。」

「お父さんは、『死ぬときは一緒やけのぉ~。』っち言って、ギュ~ってしとったよ。」(身振りをされていました。)

「そしたらお母さんが『子どもは一緒に死なせたらいけんやろ。守っちゃらんな。』っち言いよったよ。」・・・

私は、聞きながら思わずニコニコしてしまいました。



「戦争の時代」といったら、暗いイメージがありませんか?
でも、友達と海に行ったり(遊んだり)、親子でハグし合ったり、冗談を言ったり、今と変わらない日常がそこにはあったんですね。

「『もう外に出ていい。』っち言われたけ、あっちの方(洞海湾 藤ノ木方面を指さして)に行ったんよ。そしたら、ガソリン臭いで、真っ黒い煙があがっとたんよ。」

「あれは、八幡製鉄所がわざと炊いたんやろ?」

ーーーー「8月9日のことですか?」

「いつやったかは覚えとらん。」

ーーーー「八幡大空襲のあと、わざとガソリンを炊いて視界を見えにくくしたという話は聞いたことがありますが。そのことですかね?」

「それから、B29が飛ぶのを見たよ。飛びようのに、空襲警報が出らんけ、おかしいなぁ~と思いながら、見たよ。」

もしかして、長崎に落とされた原爆を積んだB29だったのか?!などと考えながらOさんのお話を伺いました。他にも、興味深い話がたくさんありました。

●下関が空襲の時に、みんな屋根に上って空襲を見たこと。
●牧山にあった火薬庫が爆発したこと
●(門司か下関の)親戚が、「関門海峡に残る機雷(の不発弾)に触れた航行中の船が爆発した!」と、電話をかけてきたこと。機雷:通りかかった船が触れたら爆発するように仕組んだ爆弾
●アメリカが「掃海艇」で、不発弾の撤去をしていたが、けっこう事故があったこと。親戚の家に行くと、船がいくつも沈没して、そのままにされているのが見えたこと。
●若松にあった赤線に、筑豊などの炭鉱地域からたくさんの人が来ていたこと。また、爆破事件があったこと。
●戦争が終わって、大人がよくケンカしていたこと。(若松は日本全国でもケンカで有名だった?!)・・・

70年以上前の記憶。時間的なズレや間違いがあるかもしれません。でも、確かにあった出来事。

過去のいろいろなことを知ると、今まで見てきたものも、違って見えてきます。

豊かに、逞しく生きたいなぁ。と、思えてきます。

よいものは残し、改めるべきはよりよく変えていくことが大事だな。とも思いました。(歴史を学ぶ意味)

ありがとうございます。また、お話聞かせてください☺

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