風船爆弾
もうすぐ、長崎に原爆が投下されて76年になります。76回目の8月9日がやってきます。
北九州市に落とされるはずだった原子爆弾・・・
どうして北九州市が第一目標にされたのかーーー過去のブログを再投稿します。
福島のりよさんの書かれた『風船爆弾』という本を読みました。
日本は15年も戦争を続けました。
戦争の末期には、戦争に使う物を作る物資がない、船や飛行機や車などを動かす燃料がない、食べる物もない、・・・「ないないづくし」の世の中になりました。
戦うための道具を作る物資がない中で作られたのが「風船爆弾」。
「風船」の部分は、和紙をこんにゃくのりで張り合わせて作られました。
その「風船」の下に、爆弾をぶら下げたというわけです。
直径10メートルほどの気球は、日本の東海岸(福島県、茨城県、千葉県)からアメリカの西海岸に到着するように考えられて放たれました。
風(偏西風)の力に頼った兵器だったのです。(燃料がいらない!)
この「兵器」を作るのに、多くの女子学生が日本各地で働かされました。
「私はやりたくない。」とは言えません。むしろ、「お国のために」なれることに、誇りをもって臨んでいたようです。
当時の女子学生の日記から、そのことが分かります。(週に1回授業があって、作業ができない日があることに対して書き綴っています。)
戦況がきん迫しているこの時に、どうして授業を全廃して、一刻を惜しむ㋫作戦(本当はひらがなで「ふ」。極秘作戦だったので、「まるふ作戦」「ふ号作戦」と呼ばれていました。)の気球紙生産のために努力しないのだろうか。国亡びては学問も修業もなく、従って人格道徳もない。一日一日苛烈凄絶(かれつせいぜつ)を極め行く戦局のために、自己の勉学などもっての外だ。~女子学生の日記より~
作業は、大変過酷なもの(昼夜2交代の12時間労働)であったそうです。手の指紋がなくなった。水虫や凍傷がひどかった。体調が悪く座り込んだ者に「非国民!」という声が飛んだ。・・・とも。
実際、無理をして体調を崩し、亡くなった子ども達もいるそうです。
「お国のため」と働いたものの、いったい自分が何を作っているのか、何も知らされずに働かされていたのでした。家族にどんなことをしているのかを聞かれても、決して言ってはいけませんでした。
そして、この「兵器」は、アメリカの住民(子どもを含む6人)の命を奪いました。
大切な人を奪われた人の悲しみ、憎しみが、何十年もたった今も残っていることが、『風船爆弾』を読んで、よくわかりました。
死んだ人の数ではない。
「犠牲者が生まれる=悲しみ(負の感情)が生まれる」
と、思いました。
武器は要らない・・・。そう思います。
風船爆弾の製造に関わったTさんが書いています。
風船爆弾という人を殺傷する特殊兵器製造に手を貸したことは、私にとって悔やんでも悔やみ切れない痛恨事である。(略)戦後40年、戦争体験は風化したといわれる中で、「あの戦争に遭遇したのは運命だった」、「戦争は歴史の流れ」などと、まるで戦争を自然災害か必然として認識している人。「あの頃は目的があってよかった。充実していた」と、戦争を懐しむ人もある。戦争は決して天災や歴史のせいなどではなく、明らかに人間のせいだ。人を殺傷することを目標に、ひたすら励んだ日々が何故満ち足りていたのだろう。(略)戦争体験は恥ずかしい。生涯をかけて、このしょく罪をしていかねばと私は考えている。
このような悔しく悲しい思いをする人たちが、平和な日本を築いてきてくださったのですね。
このような思いをする人が、一人でも出るようなことがあってはならないと思います。
この『風船爆弾』は、小倉造兵廠(ぞうへいしょう…兵器工場)で作られていました。
原紙作りから組立てまで、一貫して大量生産していたのは、全国で小倉だけでした。
1945年(終戦の年)2月までに、1025個作られたそうです。
アメリカは、風船爆弾が、細菌や毒ガスなどの化学兵器として利用されるのではないか、人間が乗ってくる‟神風特攻隊”に使われるのではないかと、恐れていました。
だから、「作っている工場を破壊しよう。」と、ねらったわけです。
小倉が原爆投下目標にされた理由は、ここにもあるという見方もあります。
(本投稿における写真と引用文:「写真記録風船爆弾~乙女たちの青春~」編集 林えいだい)